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第25話 姉、帰還④

Penulis: なつめ
last update Tanggal publikasi: 2026-08-30 07:13:44

「どこから」

「伯爵家より」

 ミレナは答え、

「旦那様のところへ先に回っております」

 セレフィアは、次の瞬間に自分の鼓動が少し速くなるのを感じた。

 父母からではなく、伯爵家から。つまり公的な体裁を帯びた文だ。しかもそれが、まずゼルヴァンのもとへ行っている。内容が単なる季節の挨拶ではないことは、その時点でほぼ確かだった。

「……何か、聞いてる?」

 ミレナは小さく首を振る。

「詳しくはまだ。ただ、バルタザル様のお顔が……」

 そこで言葉を濁す。

「少し、いつもより冷たく見えました」

 それは、よくない時の印だ。

 バルタザルは感情を大きく表へ出す人ではない。だからこそ、その静かな目元の温度が少し下がるだけで、かえって城の空気はぴんと張る。

 セレフィアは外套を脱ぐのも忘れたまま、しばらくその場に立ち尽くした。

 王都から不穏な手紙。

 春が近い。

 契約の期限も、少しずつ迫っている。

 そこへ、何が書かれているのか。

 胸の奥で、小さな恐れが古い習慣のように顔を出す。切り捨てられることへの恐れ。自分の意志などおかまいなしに、また誰かの都合で次の役へ押しやられる恐れ。春まで
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     王都へ向かう馬車は、まだ夜の冷えを残した朝に城門を出た。 北辺の空は白かった。雪が降る白ではない。春の手前で、雲も光もまだ色を決めきれない時の白だ。高いところに薄くひろがった雲の向こうに陽はあるのに、その光は地上へ届く前にどこかで拡散し、山の輪郭も、城壁の石の色も、やわらかく曖昧にしている。だが空気そのものは鋭い。息を吸えば肺の内側へ冷えが入る。馬の吐く息はまだ濃く白く、轍の残る道の端には、冬が置き忘れていった灰色の雪が薄くこびりついていた。 城門の前には、必要な人数だけが並んでいた。 バルタザル、ネリサ、ミレナ、それから数人の騎士と従者。見送りは簡素だった。王都へ向かうといっても、これは華やかな旅立ちではない。春の舞踏会への出席。王命。王都の実家と姉が必ず何かを仕掛けてくるとわかっている行き道。誰も大げさな言葉は言わない。ただ手落ちのないよう整えられた荷と、時間と、動線だけがそこにある。「王都での滞在先には、すでに先触れが入っております」  バルタザルは馬車の扉のそばでそう告げた。 「旧屋敷の者には、伯爵家からの直接の使いをすべて表で止めるよう申しつけてあります」「わかった」  ゼルヴァンは短く答える。「舞踏会前に一度、王都の動きを洗い直します」  バルタザルはさらに低く続ける。 「お姉君がどう動いているかも」 その一言に、セレフィアの胸の内側がわずかに冷たくなる。オルフィーヌ。恋人に捨てられ、それでも高慢さを少しも失わず、辺境伯夫人の座を取り戻せると本気で思っている姉。王都の空気の中で、あの姉がどんな顔をして立っているのかを想像するだけで、まだ胸の奥へ古い痛みが戻る。「奥方様」 ネリサが一歩近づいた。 人前だ。だから呼び名はそうなる。けれど目は、きちんとセレフィアを見ている。「寒さはまだ残ります。道中で眠れぬようでしたら、すぐお申しつけを」  彼女は言う。 「馬車用のお茶は、手の届くところへ入れてございます」「ありがとう」「それから」  ネリサはごくわずかに声を落とした。 「王都の空気は、北辺と違う冷え方をいたします。お気をつけて」 その言い方が、あまりにも的確だった。 王都の冷えは石畳や風だけではない。視線と噂と、外聞が人へまとわりつく種類の冷えだ。ネリサはそれをよくわかっている。だからこそ、あえて“空気”と

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     ゼルヴァンは、しばらく黙ってから問うた。「それで」 低い声。「お前はどうしたい」 最後の問い。決めるのは、こちら。 セレフィアは、自分の両手を見た。もう昔のように、ただ強く握り潰すだけではない。怖い時、少しずつ開くことも覚えた。温室で逃げるのをやめたいと言った時も、雪夜の小屋で彼を恐れていないと知った時も、名前で呼ばれて胸が揺れた時も、同じ手だった。 この手で、自分の人生を選ばなければならない。 ならば、答えはもう決まっている。「……行きます」 はっきりと、そう言った。 言葉は意外なほど静かだった。叫ぶような決意でも、震える告白でもない。ただ、胸のいちばん深いところに落ちていた石を、そのまま掬い上げて机の上へ置くみたいに、まっすぐな声だった。 ゼルヴァンの目が、わずかに細くなる。 ネリサが息をつく音が、すぐ近くでかすかに聞こえた。安堵なのか、覚悟を見た時の静かな受け止めなのかはわからない。バルタザルは相変わらず姿勢を崩さない。けれどその目元に、ほんの少しだけあたたかいものが差した気がした。「王都へ行きます」  セレフィアはもう一度言う。 「怖いです。でも……」  言葉を切り、ゼルヴァンを見る。 「今度こそ、自分の人生を他人に決めさせたくありません」 その一言に、ゼルヴァンはゆっくり頷いた。「わかった」 たったそれだけだ。けれどそこには、軽さがなかった。覚悟を受け取る人の返事だった。「なら、行く」  彼は淡々と続ける。 「ただし、王都で何が起きても、お前が一人で受ける必要はない」 セレフィアの胸が、静かに鳴る。「舞踏会は俺とお前で出る」  彼は言った。 「お前が決めて出るなら、俺もそれに合わせて動く」 それは甘い言葉ではない。けれどそれ以上の支えだった。隣に立つ、という意味を、彼はいつもこういうふうに実務の言葉で言う。 バルタザルがすぐに動く。「では、王都行きの準備を二通りで整え直しましょう」  彼は机の上へ新しい紙を引き寄せる。 「通常の舞踏会支度と、伯爵家からの接触を想定した裏動線を両方」  視線をネリサへ向ける。 「奥方様のお衣装は、王都で見劣りせず、なおかつ辺境伯夫人としての格を損なわぬものを。過度に華やかすぎる必要はありません」 「承知いたしました」  ネリサは即座に応じる。 「伯

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    「そうだ」  ゼルヴァンは頷く。 「断るなら、それ相応の理由がいる。形式だけの招待ではない」 王宮からの招待状ではなく、王命。つまり、逃げるにしても相応の手順と傷がいる。伯爵家からの手紙とは重さが違う。噂でかわすことも、曖昧な返事で先延ばしにすることも難しい。 ネリサが静かに言葉を足した。「王都の季節の舞踏会は、ただの社交ではございません。春の人事と婚姻、各地の報告も兼ねます」  それから、セレフィアを見る。 「辺境伯家が夫妻そろって顔を見せるか否かは、かなり目立ちます」 目立つ。 その響きだけで、王都の灯りと音が脳裏によみがえった。磨かれた床、絹擦れの音、笑い声の裏に潜む値踏み、香水と蝋燭と酒の匂い。伯爵令嬢として立っていた頃は、それをただ苦しいものとしてしか感じられなかった。まして今は違う。辺境伯夫人の名を帯び、しかもオルフィーヌの実家が必ず何かを仕掛けてくるとわかっている場だ。 心臓の音が少し速くなる。「王都からの伯爵家の手紙も」  バルタザルが言う。 「この件に合わせて動く可能性が高いでしょう」 伯爵家。つまり父と母。そしてオルフィーヌ。 姉が戻ったことは、もう聞かされていた。恋人に捨てられ、けれど高慢さは少しも失わず、本気で辺境伯夫人の座を取り戻せると信じていることも。実家が再びセレフィアを切り捨てる算段を始めていることも。あまりにこの家らしくて、ひどく、そして予想どおりだった。 だからこの王命は、ただの出席命令ではない。 舞踏会という明るい言葉の下へ、王都の実家と姉の思惑がもう透けて見える。 ゼルヴァンは、その全部をわかっている顔でセレフィアを見た。「行くかどうかは」  彼は低く言う。 「お前が決めろ」 その一言に、セレフィアは顔を上げた。 決めろ。 またそれだ。春までの契約を告げられた時と同じ。残るか、去るか、自分で決めろと言われた時と同じ。王都の舞踏会へ行くかどうかもまた、自分が決めることだと、この人は言う。「……私が」  喉が少し乾く。 「決めてよいのですか」 問いながら、自分で少しだけ苦くなる。いつまで経っても同じことを聞いている気がするからだ。決めていいのか、と。だがそれでも、確認せずにはいられない。選ぶことに慣れていない人間は、自由を差し出されるたび、まだ本当にそこへ触れていいのかを確

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     その封蝋を見た瞬間、部屋の空気が少しだけ変わった。 朝の執務室は、まだ一日の熱を持たない静けさの中にあった。高い窓の外には、北辺らしい薄い白の空が広がっている。晴れているわけではない。だが雪が降る気配もない。雲は低くなく、風は冷たいまま高いところを流れていて、光だけがやわらかく拡散している。春が近いといっても、北辺の朝はまだ油断を許さない。石壁の内側にさえ冷えが残り、暖炉へくべられた薪の匂いが、磨かれた机と革表紙の帳面の匂いに混ざっていた。 そこへ、王都からの使いが持ち込んだ封書が置かれた。 羊皮紙は上質で、厚みがある。端には無駄な飾りがなく、むしろ簡素なくらいなのに、その簡素さがかえって権威を濃くしていた。何より、封蝋だ。深い赤に押された紋章は、ヴァルダンジュ伯爵家のものでも、辺境伯家のものでもない。王宮の印。 バルタザルがその封を目にした時、ごくわずかに目元の温度が下がった。ネリサはそれを見て何も言わず、ただ侍女へ「奥方様を」と指示する。誰も慌ててはいない。声も動きも平静だ。だが平静のまま、空気の張りが変わる。そういう時があることを、セレフィアはもうこの城で知っていた。 呼ばれて執務室へ入った時、ゼルヴァンは窓際ではなく机の前にいた。書類の山の手前へ、まだ開かれていない封書がひとつ置かれている。その傍らにバルタザル。少し下がった位置にネリサ。誰も大袈裟な顔はしていない。けれど、いまここで何かが「ただの手紙」では済まないことは、もう部屋の匂いだけでわかった。「来たか」 ゼルヴァンの声はいつも通り低い。だがいつもよりわずかに硬い。「……はい」 セレフィアは扉のところで一礼し、進み出た。足元の敷物は厚いのに、なぜか石床の冷たさが靴裏越しに伝わる気がした。「座ってくれ」 その一言に、やはりまず椅子が用意されるのだと、こんな時でも思う。王都なら、こういう知らせは立たされたまま受けることが多かっただろう。逃げ場のないかたちで。けれどこの城では違う。大事な話ほど、座って聞かされる。その順番の違いが、今のセレフィアには以前より深く沁みる。 椅子へ腰を下ろすと、ゼルヴァンはようやく封書へ手を伸ばした。封を切る音は小さかった。けれどその小ささが、逆に部屋の静けさを強調する。厚い羊皮紙を開き、一度だけ目を走らせる。その間の数秒が、妙に長い。 やがて彼は紙

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    「どこから」「伯爵家より」  ミレナは答え、 「旦那様のところへ先に回っております」 セレフィアは、次の瞬間に自分の鼓動が少し速くなるのを感じた。 父母からではなく、伯爵家から。つまり公的な体裁を帯びた文だ。しかもそれが、まずゼルヴァンのもとへ行っている。内容が単なる季節の挨拶ではないことは、その時点でほぼ確かだった。「……何か、聞いてる?」 ミレナは小さく首を振る。「詳しくはまだ。ただ、バルタザル様のお顔が……」  そこで言葉を濁す。 「少し、いつもより冷たく見えました」 それは、よくない時の印だ。 バルタザルは感情を大きく表へ出す人ではない。だからこそ、その静かな目元の温度が少し下がるだけで、かえって城の空気はぴんと張る。 セレフィアは外套を脱ぐのも忘れたまま、しばらくその場に立ち尽くした。 王都から不穏な手紙。 春が近い。 契約の期限も、少しずつ迫っている。 そこへ、何が書かれているのか。 胸の奥で、小さな恐れが古い習慣のように顔を出す。切り捨てられることへの恐れ。自分の意志などおかまいなしに、また誰かの都合で次の役へ押しやられる恐れ。春まで、選べる未来があるとゼルヴァンに言われたばかりなのに、王都の手紙は簡単にその足元へ影を落とす。 だが、以前とは少し違った。 ただ怯えるだけではない。温室で「逃げるのをやめたい」と言った自分が、もう胸の奥にいるからだ。怖い。けれど、怖いからといって何も知らないまま部屋に閉じこもっているわけにはいかない。「旦那様は、どちらに」「執務室かと」  ミレナが答える。 「ただ……お呼びがあるまで、こちらでお待ちになるようネリサ様から」 それはきっと、彼らなりの配慮なのだろう。手紙の内容をまず確認し、必要ならどう伝えるかを整えるための。以前の自分なら、その配慮の中へ大人しく身を預け、呼ばれるまで何も考えぬふりをしていたかもしれない。 けれどいま、セレフィアの胸の中へ浮かんでくるのは別の感情だ。 知りたい。 そして、逃げたくない。 その二つが、静かに熱を持ち始める。「……わかったわ」 そう答えながらも、セレフィアの視線は扉の向こうへ向いたままだった。 王都でオルフィーヌが戻ったことを、この家はどう扱うのだろう。辺境伯夫人の座を取り戻せると、姉は本気で思うだろうか。いや、思う

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